否定なもののもとへの滞留 1章 限界づけは超越に先立つ

<現実的なもの>と対象小さなaとのあいだの関係の正確な性質を解明……(の解決):
享楽の実体としての<現実的なもの>を象徴的秩序からは根本的に外在的なものと捉え、対象aのほうには、見かけ[仮象]というステイタスをあてがうこと

超越論的対象と<モノ自体>のどちらも、その本性は同じ……。<モノ自体>の場合は、主体性の知覚からの独立性……にアクセントが置かれる(が)
超越論的対象の場合はアクセントの位置は、……決定的なしかたでずらされている。
まさしく、それが思考されなければならないというところである。

ie.,超越論的対象は、思考されたモノ……
われわれに対して、意識に対してあるかぎりでの<即自>

この、……解決の問題点は、それが<モノ>の「実体化」に通じる……こと


(ラカンのカント読解の最終的なポイント)
現象と<モノ>との区別は、シニフィアンの介入によって構造化されたものとしての欲望の空間の内部でだけ維持することができる……
この介入によってこそ、接近可能で、象徴的に構造化された現実と、<現実的なもの>の空虚……がもたらされる……

「現実」にとって構成的な<モノ>の欠如は……(認識論的ではない)むしろ、欲望の逆説的論理にかかわっている

(モノの実体化はいかなる由来によるのか<モノ>-享楽の地位は認識論的なものになる
その到達不可能(性)が不可知性として知覚されるのは、われわれがそれを「実体化」し、その実体がその喪失に存在論的に先立つのだと想定するときに(現象の)「カーテンの背後」に見るべき何かがあると考えてしまうとき……

限界は<向こう側>に存在論的に先立つ
われわれが崇高として経験する対象(は)、
仮象は、この限界の彼方の「無」、空虚の単に二次的な実定化に過ぎない

崇高というカント的な概念は、フロイトの昇華の概念と完全に両立可能


(ラカンの<現実的なもの>の概念には)根本的な曖昧さが……つきまとっている…。<現実的なもの>は、象徴化に先立ち、それに抵抗する、ある実体的な固い核を指し示しているが、それと同時に象徴化によって措定される、あるいは「生産される」残余をも指し示しているのである。

実体とは剰余によって回顧的に呼び出される幻影

(ヘーゲルの「知的直観」)は……抽象的な「悟性」のレヴェルに属している<感性的なもの>と<知性的なもの>とのactualな綜合は、カントにとってはそれらの分割であったもののうちで、すでに実現されているのである。
なぜなら、超感性的な<理念>とは、直観された現象の内的な限界づけ以外の何ものでもないのだから。
ヘーゲルは、このように直観と知性とを永遠に分かつこの裂け目を再認した……。

ある「対象」が出現するためには、その内容を提供する感性的直観の多様が、<思考されたもの>としてのあるXという、「感性的には充足されない概念」によって、……空虚によって代補されていなければならない、なぜなら、それは、主体性の統覚の綜合的行為の相関物である「物象化された」効果なのだから。