「否定的なもののもとへの滞留」1章主体から実体へ....そして逆戻り

マルクスヘーゲルから分かつ裂け目
主体の決定的な次元
「実体から主体への」道を逆方向に通ることで可視的になる。(ヘーゲル批判の)基本的な前提は「現実に存在する諸個人」がその潜在力を...社会的ネットワークにおいて実現する

ヘーゲル的パースペクティヴでは、...正反対の地点を見る。
主体が<実体>の自己関係化の、従属した一契機に還元されてしまう地点

「個人」と異なるものとしての主体にわれわれが出会うのは、まさにここであり、そして、ただここにおいてだけなのだ。

ヘーゲル的な「主体」は...<実体>のそれ自身にとっての外在性に対する名前以外のなにものでもない<実体>が主体にとって、...外在的でー到達不可能な存在として現われるという事実は、<実体>の自己分割を証言する...
(この分割は)
社会的<実体>を横切る分割を、主体を構成する分割へと関係づける(ことによって理解できる)
私が<他者>とコミュニケートできる...開かれている(のは)、私がすでにわたし自身において分割され、「抑圧」の烙印を押されているかぎりにおいてであ(る)

私にはけっして私自身と真のコミュニケーションを行なうことはできない...
(コミュニケーションが可能になる地盤は、普遍的価値の共有ではなく)共有された行き詰まり

それゆえ...ヘーゲルの行為の概念にとって決定的なのは、
行為は...定義からして、外在化、自己対象化の、つまり未知なるものへの跳躍の契機を含み込んでいる
「理性の狡知」というゲームでそのひとの役割を引き受ける
私とは対他でしかない

(根本的な問題)
(内的な企てを外在化、現実性の様態に重ね合わせることに)完全に成功した行為は破滅をもたらすであろうこと*1

「理性の狡知」を通じて搾取する...職人は、逆に「客観的精神」によって搾取されている

*1:秋葉原の事件!